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長野地方裁判所上田支部 事件番号不詳 判決

右の者等に対する不法監禁住居侵入被告事件に付いて当裁判所は檢事渡〓寛一関與の上審理を遂げ左の如く判決する。

主文

被告人小池充、同中沢貞夫を各懲役十月に処する被告人富岡隆、同六川英夫、同大滝良治、同池ノ谷猛男、同柳沢精尊、同山崎正次、同伊東義〓、同小池久、田中〓を各懲役八月に処する。

但し被告人小池久同田中〓に対し此裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は証人斉藤千代子に支給した分を除いてその余は全部被告人等の連帶負担とする。

被告人富岡隆は住居侵入の点に付いて無罪。

理由

鐘淵通信工業株式会社(以下会社と略称する)は、昭和十八年十月設立され、現在本社を東京都品川区大井鎧町二千四百七十五番地に置き、長野縣上田市大字当八に工場を設けてラヂオ機械並にその部分品の製造販賣を爲して居るところ同会社の労働者は、昭和二十一年七月労働組合を創立しその後全日本電氣工業労働組合信越支部鐘通分会(以下組合と略称する)と成り、被告人小池充はその執行委員長兼鬪爭委員長、被告人中沢貞夫は書記長兼鬪爭副委員長被告人六川英雄、同大滝良治、同池ノ谷猛男、同柳沢精尊、同山崎正次、同小池久、同田中〓は孰れも鬪爭委員であるが会社は、終戰以來漸〓業務振はず昭和二十二年五月頃から組合員に対する賃金支拂が遅れ勝ちとなり、組合員に生活不安を生ぜしめた許りでなく、同年暮頃から工場が專賣局上田煙草工場として買収される運びとなつたので組合員は、事の推移如何に依つては職場を喪失し、失職の悲運に際会するかも測り難いので、昭和二十三年二月頃から会社に対し鬪爭体制を整へ、職場保障の協約を結ぶようになつたが、右煙草工場問題はその後、色々な取沙汰を生み組合員は眞相を把握するに由なく遂に会社の眞意に疑惑と不信の念を抱くに至つた、折柄同年四月九日の組合大会の席上で担任者級の阿部正巳等から突如組合幹部に対し、不信任案が提出され現幹部は一部の外部勢力と通じて組合員の勤労意欲を低下させ生産を阻害するものであるとの批判を受けた爲め、之が可否を組合員の投票に諮つたところ右不信任案は阿部政巳等が、会社首脳と結託して組合の弱体を図るものなりとて少数で、否決されたので阿部政巳外二十名の者は、組合を脱退して急遽別個に組合を結成し從前の組合は第一組合、脱退者の組合は第二組合と称され第一組合は第二組合を目して、労働組合を僞裝せる会社の御用團体となし激しく頡頏することになつたが、第一組合は第二組合員等が脱退する以前に組合の統制を紊るものとして、除名処分に付したので組合から除名された者は、会社も之を解雇すると謂ふ労働協約に基いて解雇せらるべきもので工場にて就業し得ないと断じ、之が工場への入場を拒否して紛爭を生じたので会社は事態の鎭靜を待つ爲め、同月十五日から臨時休業を宣告したが第一組合は右休業は協約の違反なりとて、之に承服しないで依然として操業を継続し一方長野縣地方労働委員会に労働爭議の調停申請を爲したところ、会社は第一組合を相手取り上田檢察廳に営業妨害建物不法侵入罪で告訴し、前記労働委員会に解散申立を求め更に工場内から第一組合員の退去を要求する仮処分を、長野地方裁判所上田支部に提起し第一組合に対する攻勢急なるものがあつたので、第一組合員も態度愈硬化し情勢は深刻化し此間僅に、同月十九日休業を解いた丈けで爾來引続き休業を継続して來たので、第一組合等は工場内の寄宿舍に拠り会社との間に團体交渉の機会を求め、賃金遅拂その他の懸案の問題を解決しようと努めたが、会社は第一組合が外部の應援團体と絶縁してのみ交渉に應ずべく固執して讓らないので空しく、日時を遷延して來た折柄同年五月五日会社は突如爭議解決も見透し難いので、寄宿舍の工員等に帰鄕を勧告し尚帰鄕しない者には、賄の補助を停止し、月額千円の実費を懲收の見込である旨の告示を出し、一躍金七百円の値上を宣告したので第一組合員等は右は賃金遅拂に因つて、困苦せる自己等に難きを強いて、結局前記仮処分と相俟つて、第一組合員を工場及寄宿舍より全面的に放逐する奸策なりとて、憤慨すること甚だしく、

第一、被告人小池充、同中沢貞夫、同六川英夫、同大滝良治、同池ノ谷猛男、同柳沢精尊、同伊東義〓、同小池久、同田中〓は右五月五日午後三時頃他の第一組合員等百名位と共に工場内のバレーコート辺に集つて、前記寄宿舍問題の告示に付いて善後策を相談中偶〓その附近を会社の、技術部兼通信機部長である福永健男と生産管理部長である毛利淸が通り掛つたので前記被告人等は共謀の上、右両名を右コートに連れて來た上更に、他の幹部職員等をも連れ來たつて多人数でその周囲を取囲んで、その行動の自由を阻止し多数の威力に依つて前記告示の撤回と團体交渉の應諾をさせようと企て、先ず右両名をコート内に連れて來て、用意の腰掛に着席させた上、被告人等の意図を了察して居る、前記組合員等百名位と共にその身辺を包囲し更に午後七時頃迄の間に、計器部長喜多治夫、企画部調査担任者坂井菊三郞、工場次長河合次男をも順次にその舍宅又は出先から連れて來て、同様腰掛に着坐させ告示の撤回と團体交渉を迫り、被告人山崎正次は此間午後四時三十分頃現場に到り、前記被告人等の計画を了知し之に共謀荷担したが、被告人等の態度が粗暴で一方的であり、周囲の多数も徒に喧噪を極め罵詈する始末なので前記五名は、斯樣な強圧の下では到底公正な交渉を爲し得ないと思い、無言の儘一語をも発しないので被告人等は素志を貫徹する爲めには飽迄五名を現場に拘束して置き、徹宵をも辞せないと決意し前記多数の組合員又は、漸次事を聞いて應援の爲め現場に來て被告人等の計画に荷担するに至つた、友誼労働組合の組合員等と共に前記五名の周囲を取囲み脱出を阻止し、被告人等は時に交替にて仮睡又は休養を爲すが前記五名は終始その場に留め置いて、一睡をも許さず翌六日午前三時頃前記毛利淸が疲労と寒氣の爲め、脳貧血を起し卒倒したので同人のみの帰宅は許したが他の四名は尚も、引続き拘束した儘同日午前十一時頃に到つたので該四名は困憊甚だしく遂に被告人等に対して、同日午後二時から工場敷地内に在る工場長吉岡英雄舍宅で、團体交渉に應ずる旨を不本意ながら約諾し、河合次男を代表者として右趣旨の協約書に署名捺印して差入れたので始めて同人等に対する拘束を解いたが、事が茲に至る迄の間前記のように五名に対して十数時間に亘り不法に監禁し、

被告人富岡隆は長野縣労働組合会議の組織部長であり、会社と第一組合との間の労働爭議に付ては予てから、右組合側に立つて熱心に應援して居つたが、前記五月五日午後十一時過頃長野市からの帰途上田駅に下車した際、出迎の者から前記のように被告人小池充等がコートで、会社側に團体交渉を求めて居ることを聞知したので、同人等に協力して右團体交渉の締結を促進させようと思ひ直に現場に行つて、前記河合次男等五名が多数の者に取囲まれて居る情況を知悉するに至つたが、應援の熱意から單に第三者として傍観的な態度を採るに止まらないで進んで、河合次男等の身辺に迫り「こんな奴等を人間扱にするな」と申して同人等の前に置てあつた湯茶を他の者に命じて取り去らしめ或は「こうなれば鐘通には犠牲者は出さぬ俺達が相手になる」と威嚇放言して、現場に在る爾余の被告人及他の工員等の氣勢を皷舞激励し、之に荷担援助の意を表明し、更に前記のように翌六日午前三時頃毛利淸が昏倒の際福永健男が隙を見て周囲の人囲ひの間から、脱出して附近の第二守衛所に駈込んで医者の來診を乞ふ爲電話を掛けたので外部との連絡を恐れ逸早く、被告人小池充その他二、三名が之を追跡し右通話中の福永を捕へ再びコート内の現場に引戻した折にも被告人富岡隆は專ら團体交渉の促進を念願するに急なりし余りとは謂へ、右小池充等に附して前記守衛所に行き、福永がコートに連れ戻されるのを見届ける等の行動に出て、その後同日午前四時頃迄現場に居り以て前記不法監禁を継続中の爾余の者等の間に外部應援者として伍した上、更に自ら進んで前述のように主動的に行動して爾余の被告人等の該不法監禁に共謀荷担し、

第二、第一記載の如く五月六日午後二時を期して、工場長吉岡英雄方で團体交渉に應ずることを河合次男、喜多治夫、福永健男等が約したので第一組合員等はその時刻の到來を心待ちにして居たが、吉岡英雄以下右河合次男等会社幹部は斯る約定は畢意不法監禁の下に自由でない意思に基き爲された無効のものであり、更に吉岡英雄は折柄健康を害し発熱中であり河合福永喜多等も徹宵し疲労が甚だしく現に吉岡英雄方で臥床休養中等の事情があるので、該交渉を後日に延期しようと思つて午後二時前頃吉岡英雄の妻二子をして組合事務所に本日の團体交渉を延期する旨電話で通告させたが、その方法が余りにも粗略であり、更に組合側の間合せに應ぜぬため右電話の受話機を外して置くと言ふ樣な態度に出たので、被告人小池充以下の闘爭委員等は他の第一組合員等と忿懣に耐へなかつたが、兎に角之が対策を協議した結果、飽迄同日中に團体交渉の機会を得たいと思ひ午後二時頃に吉岡英雄の邸宅の前に赴いたが、同人方では固く門扉を閉ぢて何人の出入をも拒否して居るので、空しく門外に在つて爾後方針等を考慮して居たが、同日午後七時三十分頃会社職員である二階堂壽、小木曾政一をその自宅から連れ來つて両名に対し経営者側の一員として吉岡英雄等会社幹部と第一組合闘爭委員との團体交渉を取次ぐべきことを要請し、逡巡する両名をして前記門扉を乘越へ邸内に入らせたので、当初両名は勝手口から屋内に案内され前記委員等の要求を傳へたが、居合せた福永健男、喜多治夫から拒まれた爲め、門の個所に引返して門外の委員等にその旨を告げると被告人小池充、同中沢貞夫、同大滝良治、同柳沢精尊、同伊東義〓等は門扉を乘越へて邸内に入り閂を外し、表門からの出入を可能ならしめて置いた上更に前記両名に吉岡英雄等との交渉取次を依賴したが、同人等は吉岡方家人から右取次を峻拒されて同日午後九時頃門の個所に引返して來て之が報告を爲したので遂に被告人小池充以下の闘爭委員等は非常手段として吉岡英雄方に侵入し同人及河合次男等幹部の所在を突止め、直に同家で團体交渉を行ふことを決意し前記門から邸内に闖入し被告人小池充同中沢貞夫同大滝良治、同池ノ谷猛男、同柳沢精尊、同伊東義〓、同小池久は偶〓同家玄関西側の廊下の硝子戸中に施錠のない個所を発見して、同所から相引続いて屋内に侵入し、被告人山崎正次は既に侵入した者が玄関の施錠を外したので同所から屋内に侵入し、被告人田中〓も右正次と前後して同所から侵入し、以て何れも故なく人の住居に侵入し被告人六川英夫は当時組合事務所で、組合事務処理中、午後九時頃闘爭委員等が團体交渉の爲め吉岡英雄方に入つたと謂ふ通知を受けたが、右委員等が不法に家宅侵入したとの認識なく急遽吉岡方に赴いて開放されて居る玄関から、展内に入り吉岡英雄等会社幹部と闘爭委員等と会見中の二階八疊間に到つたところ右英雄が、被告人六川英夫を含む前記闘爭委員等との交渉を快しとしないで帰るべきことを要求したが、一同と共に之に應じないで以て要求を受けてその場所から退去しなかつた。

ものである。証拠を按ずるに冐頭記載の事実は当公廷に於ける被告人小池充同中沢貞夫の判示同旨の供述に依つて之を認め判示第一の事実は

一、被告人小池充の当公廷に於ける自分等が五月五日午後三時半頃バレーコートの芝生の所で第一組合員百名位と集つて食堂に関する告示の撤回その他を一括して團体交渉を爲すことを協議して居ると通信部長兼技術部長の福永健男と生産管理部長毛利淸が通り掛つたので呼び止め、又午後四時頃会社側の坂井菊三郞にも來て貰ひ更に午後六時過頃工場次長河合次男と計器部長の喜多治夫の二人が前後して來て河合は午後七時半頃には帰り度いと申したが之は何時も会社の使ふ手であり自分達は此の手で時々逃げられて來たので單に河合の希望程度と聞いて置いた、自分等が前記告示の件に付五人に尋ねると結局爭議の解決がつかぬから告示の撤去は出來ぬとの返事であつた、交渉の際は机を置きその両側に会社の五人と自分等の腰掛があり、その周囲に組合員が百人以上円陣を組んで居り主として自分と中沢が話し他の闘爭委員はその側に居て矢張り相手方に発問した自分等は河合が帰り度いと申しても交渉に應ずるか否かを返答せず何時もの芝居をされて逃げては困るので帰さぬ心算であつた。五人の周囲を組合員が多勢でスクラムを組んだのは吾々労働組合の團結を表象したもので怖れる必要はないのである、自分等は默り戰術になつても、時間を問はず何とか糸口を見つけようとした、五人の默り戰術中二、三十名位外部の者が來たが此等の者は前から今回の爭議を心配して、仕事の終了後來て居たのでその時も來たのである。福永かと思ふが便所に行き度いと言ふたので仲間の誰れかが監視として附いて行つたが、之は自分達としては解決のつく迄同人等を逃がさぬ爲めである。午前三時頃ハンストの宣言を読むとき河合等五人を起立させたが毛利がその場に倒れたのはマーヂャンで夜を徹する樣な身体の丈夫な同人だから仮病と思つたが手当はしてやつた。午前十時頃になり当日午後二時か工場長方で團体交渉することになり一同別れたが五人と交渉中組合員中には一應帰つた者もあるが、交渉主体の我々は少しは休んだが寢た樣な者はない、自分は六日午前四時頃迄居つたが外部の者が來て呉れたので、一旦寄宿舍に帰へり暫く休み又んだ其場に引返した旨の供述。

一、被告人中沢貞夫の当公廷に於ける五月五日バレーコートの所で自分等は第一組合員と集つて居り、通り掛つた福永と毛利を呼び、更に坂井、喜多、河合にも來て貰い寄宿舍に関する告示の説明を求めたがその際百五、六十名の第一組合員が五人の周囲を取卷いたのは、話を聞き度い爲と思ふ。午後七時半頃河合は帰ろうとして立つたので、自分等がもう少し居て話をつけて呉れと申すと、五人は無言となつた儘、翌日に至り晝少し前頃團体交渉を持つ調印をして帰つた、河合等と交渉中相手方の誰かゞ便所に行つたとき仲間が附いて行つたのは、逃亡を防ぐ爲であつた、自分等は我々の要求が正当であるから、事が解決する迄は什うしても河合等に居て貰ふ積りであつた旨の供述

一、被告人六川英夫の当公廷に於ける五月五日の、バレーコートに福永等会社側の五人が來て交渉した顛末は相被告人小池充の申す通りで別に申す事はない、尤も自分は終始その場に居た訳でなく、五日の午後十時頃から、六日午前四時半頃迄寄宿舍に行つて居つた旨の供述。

一、被告人大滝良治の当公廷に於ける、五月五日寄宿舍の件の告示が出たので、自分は午後二時半か三時頃に之を見てその告示を、組合事務所に持つて行き仲間に見せると福永と毛利が工場に來て居ると聞いたので、自分は工場に行き二人に会つて告示の事で説明を問求めると二人は、仮処分の解決が遅れて居るから遣つたと申すので、自分は尚も押問答をして居ると二人は家に帰ると申して歩いて行くので、自分は此儘二人に逃げられては困ると思つて、バレーコートの所に集つて居た八十名から百名位の組合員に知らせ待つて居ると、折柄二人が來たので二人にコートの所に來て貰ひ聞くと、知らぬ存ぜぬの一点張りでありその後、河合や喜多が來たが矢張り告示の事は知らぬと申し、午後七時半頃になると帰り度いと謂ふので、自分等は帰るなら判然話をつけて呉れと申すと腰を掛けた自分等は告示の撤回と團体交渉を持つ樣にして呉れと繰返し申したが、相手は沈默戰術に出た福永が便所に行くとき附いて行つたのは、交渉中だから逃さぬ爲めである自分は午前一時半から同四時迄寄宿舍に行き再び現場に行き、午前八時頃から事務所に行つて居ると晝の十二時頃交渉が出來たと聞いた旨の供述。

一、被告人大滝良治に対する檢事の第二回聽取書中同人の供述として、自分としては会社が交渉に應じないので万止むを得ず、会社の者を捕へて解決を迫り、我々の納得する答を取り度くてやつた、之は自分一人の考ではなく我々闘爭委員始め全部の意思と言えるだろう旨の記載。

一、被告人池ノ谷猛男の当公廷に於ける五月五日、バレーコートの所に福永と毛利に來て貰ひ更に河合等五名と交渉して居ると、午後七時半頃帰ると申したがその時組合員等がスクラムを組んだのは、我々労働者の士氣を皷舞する爲めであつた、自分は現場に午前四時半頃迄居つたが、その間の情況は当公廷で相被告人の申す通りである、自分は右四時半頃自宅に帰り午前七時頃再び現場に行き相手方の沈默戰術を見て他に連絡の爲め其の場を去つた旨の供述。

一、被告人池ノ谷猛男に対する檢察事務官の第二回聽取中同人の陳述として、五月五日午後三時半頃組合員百五、六十名がバレーコートの所に集り福永、毛利、坂井、河合、喜多等に交渉して居ると午後七時半になると約束の時間だから帰ると申し、同人等は帰ろうとしたので自分等は引止めた、自分等は会社側がダンマリ戰術で行くなら解決が付く迄徹夜しても交渉を続行する決意を定め、同人等を取囲んだ儘相対して居た、会社側の者が便所に行く時監視を付けたのは逃げられては問題の解決が出來ぬからである旨の記載。

一、被告人柳沢精尊の当公廷に於ける五月五日午後三時か三時半頃幹部の組織に関する会議中自分は、寄宿舍の告示問題を聞き不当と思つた、それから皆が聞き傳へて、バレーコートの所に集り福永と毛利に來て貰つたが、自分は寄宿に行き其処に居る組合員と協議して午後五時半頃行くと坂井、喜多、河合も來て居り組合員は百人位居た、自分等は河合等に團体交渉を持てと申したが、無言で何も申さなかつた、自分は午前一、二時頃寄宿に帰り、午前二、三時頃現場に行き午前四時頃から事務所へ行き、午前六時頃から更に現場に行つて居た、福永等が便所に行くときは附いて行つた自分達としては我々の死活問題で交渉するのであるから相手が何とか返事して呉れる迄は居て貰ふ心算であつた旨の供述。

一、被告人山崎正次の当公廷に於ける自分は五月五日午後四時半頃、バレーコートえ行き、翌日午前一時頃迄其処に居り其の後寄宿に行き寢て午前七時半頃帰宅し午前九時頃又行つた、河合は午後七時半に帰り度いとて立上ろうとした福永等が小便に行く時も組合員等は後を附けたが、之は從來逃げられたからである、河合等は帰り度い意思はあつたと思ふが別に口に出さなかつた從來の会社の遣り方から見て、又逃げられては困るからその日は何とか解決のつく迄は返さぬ氣持はあつた旨の供述。

一、被告人伊東義〓の当公廷に於ける、自分は五月五日午後三時頃告示の事を知り腹が立ちバレーコートの所に集り対策を協議して居ると福永と毛利が來たので説明を求めると河合次長が爲した事で我々には判らぬと、寄宿舍の告示の件について申し、其後來た河合は爭議解決の見通がつかぬ爲め一應帰つて貰ふ爲めだと申して、そして午後八時頃から相手は沈默戰術に出た自分は翌日の午前八時頃迄現場には三度位行つた福永等が便所に行くとき附いて行つた事は、自分は見て居らぬので判らぬが当然と思ふ、自分は他の相被告人等の述べて居る通り正当の主張をして居るのだから、河合等に良心があれば迷惑はせぬと思ふ旨の供述。

一、被告人小池久の当公廷に於ける五月五日、バレーコートで福永と毛利に告示問題で説明を求めると二人は口を揃へて知らぬと申したが、我々としては死活問題なので、何とか交渉せねばならぬと思つた、自分は間もなく、柳沢精尊と二人で事務所に行き寄宿舍の者と今後の対策を協議して午後五時又行くと、坂井が來て居り一時間位して又行くと河合、喜多も居り默り戰術であつた、自分は午後十時頃迄其処に居り、午前一時頃迄寄宿に行つて居り、その後二時頃現場に顏を出してからは現場に行かなかつた、現場に組合員は多い時は百二、三十名であつた自分は相手があの樣に默り戰術に出て居る限り什うしても交渉を遣る氣がなく、紛爭を起す覚悟と思つた相手を多勢で長時間に亘り、左樣に留めて置いても之は團体権の行使で違法とは思はぬ旨の供述。

一、被告人小池久に対する檢事の第二回聽取書中同人の供述として、今回の爭議に付ては殆んど毎晩の樣に鬪爭委員等が寄宿舍の十五疊の部屋ともう一部屋に集り、其の日の鬪爭経過や明日の行動に付いて協議した、我々は嚴正な團体交渉権を持つて居る以上多少無理しても不法とならぬと解して居た、自分等は五月五日には何時間掛つても、團体交渉を持つ約束をさせる積りであつた、我々は思ひ〓に布團を被つたり横になつたりし三、四十名は絶へず起きて居り五人が眼を閉ぢれば、大声で怒鳴つたりした、便所へ行くときは逃げぬ樣に、監視をつけ少い時は五十人多い時は百二三十人位で周囲を取卷いた、我々は死活の問題であるから二晩かゝろうと、三晩かゝろうと交渉に應ずる迄は、一歩もその廣場から離れず会社側の五人に要求する考へであつた、この考へは自分一人の考でなく全部の考であつた自分等は五人を逃さぬ樣人の垣根を作つたのであり同人等の意思や自由は押へても差支へないと思つた旨の記載。

一、被告人田中〓に対する檢事の第二回聽取書中同人の供述として自分は交渉権が有る以上、工場長の態度が余り卑怯なので如何にして彼と交渉の糸口を見出すかに就て心を碎いて居つた。五月五日自分は組合事務所に外の斗爭委員等と一緒に居ると誰れかゞ会社の毛利と福永を相手にして、バレーコートの所で交渉が始まつたから來て呉れと知らせを受けその場所に行つて見ると福永と毛利を囲んで小池等が交渉するところであり、自分も福永に團体交渉を持つて呉れと申した、自分は其処に三十分位居て自宅に帰つた、我々としては会社が今迄誠意を持たず全く交渉に應じないので、その日も我々の要求を容れる迄は会社の者を其処から帰さぬ樣にして頑張る心算であつた旨の記載。

一、被告人富岡隆の当公廷に於ける自分は、五月五日縣労の会議の打合せ等で長野市に行き午後十一時半頃上田に帰ると、信越電線の工員が迎へに來て居り、鐘通の組合側と会社側が團体交渉をして居るが会社側は默り戰術で困つて居るから、行つて遣つて呉れと言はれて早速行くと、会社側の五人は机を境に組合側と腰掛け数十名の組合員が周囲を囲んで居り、会社側は全くの無言であつた、我々労働者は皆兄弟仲であるから皆心配して、自分の勤先の信越電線の者も、日本無線、富士通信の者達も十名位來て居つた、自分は貴樣等と剌し違へて遣ると申したかも知らぬが、言葉尻に過ぎない、又五人の前に出してあつた茶を取上げたのは、默り戰術で癪に障つたからである、福永が途中で毛利が倒れたとき五、六十米離れた電話室に行つたので迎へに小池充等三、四名が行き自分は五、六分遅れて行つた、自分は團体交渉中であるから交渉を継続して貰ふ爲めに樣子を見に行つたのであるが、福永は交換台にしがみつき他の者が手を引張つて居つた、自分は福永に絶対に手を掛けず、交換台にしがみついて居た福永を誰かゞ担つて來る樣にして連れて來るのを見た、自分が交換台の所に行つたのは福永に帰つて貰ふ爲め樣子を見に行つたのである、自分は午前四時迄現場に居り、午前八時頃再び行くと中沢が会社側は二、三日中に團体交渉に應ずるとの事なので出來る丈早い方が良いと申した自分は、縣労会議の組織部長をして居る爲め、此度の爭議についてはこの地方に住んで居る関係上代表して、團体交渉を持たせる爲め何かと應援して來た旨を供述。

一、証人福永健男の当公廷に於ける、自分は鐘通上田工場で通信機部長兼技術部長をして居るが、五月五日毛利淸等と工場に行き午後三時頃帰ろうとすると事務室の二階やバレーコートの方から第一組合の四、五十人位の者が來て無理に自分と毛利をコートに引張つて行き、小池充その他の鬪爭委員が組合員と我々を取卷き「我々を殺す氣か」と申して告示の事を問ふので休業が長引くから帰宅を勧めたと申すと承知しなかつた、その場に小池充以下大部分の委員が居り、組合員は百人位居た、この者達は我々を中心に取卷き車座になり、机と椅子を持て來て腰掛させた、自分が何か言うと直ぐ無茶苦茶を次々に言い、何ど説明しても点頭いて呉れず、言葉尻でも取られると思ひ、腰掛けるのを断つたが無理に掛けさせられた、周囲の者も色々と罵倒するので無言で居ると、喜多治夫や坂井菊三郞や更に午後七時頃河合次男が來て五人になり、河合は委員等と告示や團体交渉の事で話し、午後七時半頃約束の時間だからとて立上つたので、我々も立上ると肩を押したり引張つたりして、又腰掛けさせられた、その時委員は全部居たと思ふが他の者も周りを取卷き帰るのを阻止した、午後八時頃から外部の人達が增し「我々は戰爭中苛められたから苛め返して遣る」とか色々の事を申し怒鳴り午後十一時頃から鐘道の者は委員の一部を残して段々引揚げて外部の者と替り、午後十二時頃となると日本無線の箱島や池ノ谷の妻なぞは自分等が目をつぶると「彼奴は寢て居る」と指示し、すると他の者が肩を突いたり「ライターで鼻をあぶれ」と申したりしたが、その頃富岡隆が來て我々に出してあつた茶を「こんな奴等を人間扱にする必要はない」とて、茶を取上げ尚「貴樣等と刺し違へて遣るから覚悟しろ」と申しひどい劍幕であつた、午後十二時過から周囲は段々騷がしく、大滝は机の上に上り大皷を叩き野次を飛ばし罵倒し、午前二時頃にハンスト宣言を読み更に労働歌を唱ひ、自分達も起立させられて居ると、毛利が倒れたので、自分が守衞所に飛んで行き電話を掛け、医者を呼ばうとすると組合員が追つて來て自分の通話中小池充は自分の左手を持ち、右手を外部の組合の中西が持ち引張り出そうとし、尚二、三人が交換台室に入つた氣がするが、その室から自分を引張り出し、その四、五人に抱かれる樣にして、更に途中引きずる樣にしてコートに行つた、その後工場長宅で團体交渉する協約が出來て河合次長が代表し、相手は小池が代表して調印し、自分達は工場長方に行つたが、自分達はその協約は強要された無効のものと思つた、自分はコートに居た際帰り度い氣持であつたが駄目と思い、又そんな事を申して乱暴されては困ると思い言はなかつた、自分は交換台の室に居るとき富岡が自分の眼前に來て、自分の事を引張り出せと申した樣に思ふ、又傍に居たから自分の胴の辺を持つて引張つたと思つてそうしたと、從來の調べで述べた旨供述。

一、証人毛利淸の当公廷に於ける、自分は鐘通上田工場で生産管理部長をして居るが、五月五日午後三時頃工場から福永と一緒に帰ろうとすると、組合員に取卷かれバレーコートの方に無理に連れて行かれ告示の事で聞かれ、俺達を餓死させるのかと言ふので、趣旨を説明すると皆は、イキリ立ち一方的に叫ぶのみで何回述べても同じ樣な事を繰返し、更に坂井、喜多、河合が來た、河合は午後七時頃來て我々と同樣な事を繰返したが、組合の者は了解せず同人が約束の七時半が來たので立上り、我々も立上ると話がつく迄は帰すなと叫び、スクラムを組んだり背後から肩を押したりして帰へさぬので仕方なく、椅子に腰掛けた、午後十時頃になると外部の見馴れない顏が沢山見えて、委員と遂次交替し午前二時半頃ハンストの宣言文を読み富岡隆が皆立たせろと申し立たされたが自分は倒れた、自分は寒いし目をつむれば肩や頭も突いたり、上衣を引張るので心身共に疲れて何が何んだか判らず倒れた、その後四時過頃に應接室に背負つて行つて貰ふと、組合の委員が椅子に寢て居た自分の病名は脳貧血であつた、自分はそれから守衞に担がれて家に帰る爲め門の方に行くと其処に大滝良治が大手を廣げて、自分の前に立塞がり帰るのを阻み、其処に中沢が來て應接間に寢かして置け、帰してはならぬと言つたが守衞が帰えした方が良いと申すと、中沢は工場長に團体交渉に應ずる樣取次ぐ事を條件に帰へした旨の供述。

一、証人坂井菊三郞の当公廷に於ける自分は、鐘通上田工場の企画部担任者であるが、五月五日午後四時頃福永と毛利がバレーコートの所で、組合員に取卷かれて居り自分も呼ばれて行つた其後喜多や河合も來た、そして告示問題の話が出たが話の様子では、什の様に誠意を盡しても駄目と思つた、午後七時半に河合が約束の時間だと申しても帰へさず、その後自分等が再び帰らんとしても、スクラムを組んだり押し返したりして帰れず、便所に行くにもピケがつき逃げる機会もなく一睡もせず、翌日に至つた午前八時頃中沢に言はれて、自分が工場長の所に行き八日に交渉することにして帰つて來ると、中沢は承知したが、富岡が今日直ぐ開始しろと申すので、オジヤンになつた、其処で又相談して福永が工場長の所に行つたが、即日は駄目との返事であつたが、何とか話をつけねば帰れないので、午前十一時頃我々の独断で相手の書いた書面に河合が調印した旨の供述。

一、証人喜多治夫の当公廷に於ける自分は鐘通上田工場で計器部長をして居るが、五月五日午後五時頃社宅の農園で農耕中伊藤信雄外五、六名の者が來て團体交渉に應ずる爲め、芝生の所に來て呉れと申したが態度や言語が厭でも應でも連れて行く風なので自分は強要されて行かぬと申すと、前後を塞ぎ第一門と第二門の間に來ると、他の十名位の者がスクラムを組み、歩くのを阻止し自分の手を取つたり背後から押して無理に連れて來られた、自分がバレーコートの所に行くと福永と毛利が居りその後、坂井や河合が來た、工員は百二十人位居り、自分が椅子に着席すると告示の事を聞かれたが、自分は坂井や河合が來たので殆んど言はなかつた、現場には組合の鬪爭委員は殆んど全部居つた、河合は午後七時半迄と約束して現場に來て居たので、その時刻になり帰ると申し我々五人は立上ると包囲して居た連中が、口々に帰へすなと叫びスクラムを組んで押し返へすので再び着席し、それから翌日正午少し前迄其処に居た旨の供述。

一、証人河合次男の当公廷に於ける自分は鐘通上田工場で事務部長兼企画部長を爲して居り、又工場次長の地位に居るが、五月五日告示の問題で組合員から迎があつたので、六川に電話を掛けて午後七時半迄と時間を限つて、午後六時過頃行くと机と椅子があり、鬪爭委員が殆んど居り百名位の外部や、組合の者が之を取卷いて威圧的であつた、自分が約束の時に帰ろうとして立上り他の会社の者も、一緒に帰ろうとすると解決のつく迄は帰さぬと申してスクラムを組み、人垣を作り阻止したので諦めた、午後八時頃に又帰ろうとすると同じく帰さぬと申し、押返されて再び着席したそれから沈默して、翌日正午前頃迄現場に居た、此間午後十二時頃富岡が來て「鐘通の会社が反共なら、縣下の労働者が相手にする」「生かして置けぬから差違へてやる」などと申した、其頃外部の者は五十名位に增加し同人等は、鬪爭委員と替ると申した上委員等を休ませる爲め、之に代つて殆んど外部の者丈となつてその場に居り、富岡は「鐘通の者には犠牲者は出さない、我〓が相手になる」と申した自分は五、六十米離れた便所に二、三回行つたが組合員が附いて來る又帰ろうとすると既に申した如く、二回も阻止されたので、その後は、駄目と思ひ帰ろうとしなかつた旨の供述。

に依り之を認め第二の事実は

一、被告人小池充の当公廷に於ける、五月六日午後二時十分前頃に工場長の夫人から、電話で午後二時の團体交渉を断つて來たので、我〓はこれを一方的な拒絶で承服出來ぬので、午後二時に工場長方に行くと門が閉つて居たので、自分等二、三十名は会社側でも我〓に多少の理解のある小木曾政一、二階堂壽に午後八時頃來て貰い門の所に椅子を置き足台にして門を乗越して中に入つた、工場長に会つて交渉の連絡をして貰つたが二人は、門の内側に來て今夜は会へぬとの返事なのでもう一度聞いて貰う事にしたが、同人等にも会つて呉れぬとの返事であつた、小木曾と二階堂が中に入つた時自分は他の者と門を乗越して中に入り返事を行つて居ると今夜は駄目だと言はれたので、門の閂を開けて外に出て皆に報告し、それから門を押すと開いたので内に入つた、小木曾等が二回目の返事をしてから自分達は是非交渉を持ち度いと思い玄関に行つて鍵が掛つて居たので、他の入口を求めた所、玄関の左側の廊下の硝子戸が開いて居たのでそこから入つた、その入口には工場長の夫人が居り主人が居ないから帰つて呉れと申したが、自分等が工場長に会せて呉れと申して居ると、二、三人が入つたので自分も入り、階下の各室を物色したが居らぬので二階に昇つたが其処にも居ないので、又階下に降りた時に二階から、工場長が居たといふ声がしたので二階に行くと工場長は四疊半間の荷物と荷物の間に匿れて居た旨の供述。

一、被告人中沢貞夫の当公廷に於ける、五月六日午前中團体交渉の契約が出來たが午後二時十分前頃に工場長の夫人から延期の電話が掛り、此方の質問をも聞かず電話を切つたとの事なので一方的破棄は承服しかねるので定刻に工場長方の前に皆と行くと、門が閉じてあつた、その時刻は午後三時頃であり、自分はその後他に廻り午後九時頃又工場長方の前に行くと、門の中に小木曾と二階堂が居り、門を境に自分等と交渉して居り他の者と門を越して中に入り、両人に今一度行つて呉れと賴み、中から門を外して外に出て待つて居ると、二人が門の所に來て戸が締つて居り駄目だと言ふので、門を開けて中に入り自分は勝手の方に廻つたが戸が開かないので表に行き、庭の廊下に廻ると雨戸二本と硝子戸一枚開いて居たので入ろうとすると、夫人が拒んだが中に入つた自分は先ず廊下の西側の室に行き他の八疊間を見て應接室に行き更に二階に上つた旨の供述。

一、被告人六川英夫の当公廷に於ける、五月六日午後二時頃工場長方に行くと門が締めてあり自分はそれから工場に行き、更に組合事務所に居ると團体交渉が始つたとの連絡があつたので、午後十時頃行つて見ると玄関が開いてたので、そこから二階に上つた旨の供述。

一、被告人六川英夫に対する司法警察官の訊問調書中同人の供述として、自分が参加してから工場長と團体交渉をしたのは、約六時間位で健康の良くない工場長は交渉に應ずるのが苦しそうに見受けられ、七日午前二時頃自分達に対して、君達がそう言ふ態度ならもう交渉は続けられないから帰つて呉れと申した旨の記載。

一、被告人大滝良治の当公廷に於ける、五月六日午後二時に工場長方に行くと門が締つて居り、小木曾や二階堂に賴んだが效がないので遂に邸内に入り左側の廊下の所から入り、二階に上り又下に下り風呂場や他の室を探し、再び二階に上つた旨の供述。

一、被告人池ノ谷猛雄の当公廷に於ける自分は、五月六日午後七時半頃工場長方の前に行き、一旦その場を去り又行くと二階堂や、小木曾を介しての交渉が駄目となり、誰かゞ門を開けて入つたので自分も入り、左側の廊下の所から屋内に入り二階に上つた旨の供述。

一、被告人柳沢精尊の当公廷に於ける、五月六日午後八時半頃自分は工場長宅の前に行くと、他の交渉委員が小木曾と二階堂に連絡を取つて貰つて居り、二人は門を越して中に入り、工場長は疲れて居り駄目との事なので、自分も他の委員と門を越して中に入り、更に二人に依賴し他の委員は門外に出たが、自分は小便をして居たので外に出ず植込に匿れて居ると、二人は又駄目との返事なので組合員等は門の中に入り自分は廊下の方に廻つて誰れか一人の男が居り此の硝子戸も開かぬと申すので、自分が雨戸を送つて見ると中間の硝子戸に鍵の掛つてない所があつたので、其処から入り應接間に電燈を点けそれから工場長を探して階下の客室を見て二階に上つた旨の供述。

一、被告人山崎正次の当公廷に於ける、五月六日午後八時過頃自分が工場長方に行くと、門が開いてたので中に入り、裏にも門があるので逃げられては困ると思ひ裏に行き警戒し、その後玄関から二階に上つた旨の供述。

一、被告人山崎正次に対する司法警察官代理の訊問調書中、同人の供述として自分が工場長の宅に行くと鬪爭委員は工場長と交渉中であり、玄関には家人は誰も居らぬので、其の儘黙つて上つた自分は鬪爭委員が、家人の承諾を得て入つたかどうか全然知らぬ旨の記載。

一、被告人伊東義〓の当公廷に於ける自分は五月六日、午後八時過頃工場長方の前に行くと、門の中に小木曾と二階堂が居り自分は両人に更に交渉を賴む爲、他の委員と門を乗越して内に入り、賴んだがその後二人の交渉も駄目になつたので塀に添つて裏の方に廻り、若し警察に電話を掛けぬかと思ひ様子を見た上、今度は表に出て廊下の硝子戸の開いた所から入り、二階に上り又下に降り座敷や應接室を見てから又二階に上つた旨の供述。

一、被告人小池久の当公廷に於ける、五月六日午後八時半頃自分が工場長方の表に行くと小木曾、二階堂が門内に居り組合側と話をして居たが旨く行かぬので自分等五、六人は門を越して中に入り、二人に交渉をして貰ふ樣に賴み、閂を外して外に出たが二人が帰つて來て工場長に合ふことに決意し門を開け中に入り、その後自分は廊下の硝子戸の所から屋内に入つた旨の供述。

一、被告人小池久に対する司法警察官心理の訊問調書中同人の供述として、工場長の門の内側に小木曾、二階堂が居り外側に闘爭委員が居り門を挾んで、工場長が團体交渉に應ぜられない樣子の話をして居る中、話がしにくいと言うて道路上に居た闘爭委員は締つて居る門を乗越へて、内側に入つた自分より先に小池充、大滝良治、中沢貞夫等が入つた樣に思ふ旨の記載。

一、被告人田中〓の当公廷に於ける自分が、五月六日工場長方の前に行くと門が締つて居り組合員が四十名位居り、自分は裏の出入口の方がどうなつて居るか樣子を見に裏に廻り、塀の外から樣子を見て居ると警察に知らせる電話の声が聞へ、小木曾だかが工場長の妻に電氣を消した方が良いと言ふ声も聞へての後、表門に廻つて見ると玄関が開いてたので、そこから二階に上つた旨の供述。

一、証人吉岡英雄に対する当裁判所の訊問調書中同人の供述として自分は、昭和十九年四月から鐘通上田工場の工場長を爲し、上田市大字常入二千六十四番地の社宅に居住して居るが、自分は生れて以來余り丈夫でなく近來心臓の上の辺に動脈瘤を起し又結核の如く微熱を生ずる樣になつた、五月五日工場のバレーコートの所で河合次男等と第一組合の者達とが交渉したことは当時自分の所にも出て呉れと組合側から電話があつたので知つて居た、その後六日の晝頃河合達がヘト〓になつて來て、工場長から又氣合を掛けられる樣な事をしたとて、今回入れた一札を見せたり自分は同人等が可哀想に思はれ、文句は申さなかつたところ福永等が自分の氣持を察したのか、家内に賴んだと見へ、家内から電話で同日午後二時から團体交渉を断つたところが、午後二時頃多少の組合員が來た樣子であるがその後、次第に人数が增して來た自分方では本年四月二十二日大勢の者から、デモを受けて居るのでこの日も家の門を締め、裏木戸も閉ぢ午後五時頃には玄関や、雨戸や硝子戸に施錠をしたこの頃人数は不明だが、可成り增して居た樣子であつた、その後午後九時頃と思ふが後で聞いた話であるが廊下の硝子の所から雨戸を順次戸袋の方に送り内側の硝子戸の施錠のゆるんだ所を開けて團体交渉をする爲めに、組合員の一部が入つて來たそうである、併し自分やその他の家族は当時組合の者達が屋内に入ることを承知した事は、絶対に無く自分は自宅の二階で委員達と会つたが、團体交渉には應じなかつた、最初入つて來た時に福永は午後二時の團体交渉は自分の独断の措置であると申し、委員達に大に怒られて居りその後自分は斯樣な雰囲氣ではとても話に應じられぬと申して居る中に、幾分平靜な空氣になり團体交渉の條件等に付、話を進め自分は例の三原則である人数と時間を制限して、第三者を入れず交渉することを持出し之で話を進め樣と思つたが、話が具体的になるにつれて何回か階下に連絡に行く人があり、遂に日時や場所等を決定せぬ中に午前二時頃警察が來て、委員達は此の部屋から立去つた自分は二階に委員が來たとき最初先ず出て呉れと申し、その後も回数は記憶せぬが出て行つてくれと申し、此の室に入つた事も家宅侵入になると申した旨の記載。

一、福永健男に対する檢事の聽取書中同人の供述として、協約に河合が調印して正午工場長宅で自分と河合、喜多の三人が辿り着き其儘玄関に倒れる樣に流れ込みそれから食事をする元氣も無く床をのべて戴き工場長宅で寝たが工場長は今日はとても君達の体を見たり、自分も熱があるからやれぬと申してその事を電話で奥さんを通じて組合の六川に傳へたらしい旨の記載。

一、小木曾政一に対する檢事の聽取書中、同人の供述として、五月六日午後七時半頃自分方に大滝良治、山崎正次、小池久の三人が來て工場長と團体交渉の斡旋を賴んだので工場長の家の正門前に行くと闘爭委員の小池外十二、三名が居り小池は自分と既に來て居た二階堂に工場長に團体交渉を持つ樣に取次いで呉れと言ふので、自分も二階堂も交々断ると小池は威猛高になり「君等は経営者側の一員であり乍らその位の労を取らぬと言ふ事はない今夜は塀を叩き壊しても入る事になつて居る門を越して入れ」と申し周囲の連中も「這入れ」と怒声を発するので、自分も身の危險を感じ止むなく腰掛を台にして門を乗越へ、二階堂も同樣にして入ると外の連中が門を開けろと申したが、應じないで勝手口に廻り、上に上げて貰ふと工場長も河合も既に休み、福永と喜多の二人が起きて來たので自分は小池の言つた事を申すと、二人は病氣で疲労して居るからと断つて呉れと申すので門の所に行き、外の者に報告すると中沢、小池を始め二、三人が門を乗越へて庭に這入り一人が閂を開け四、五人が中に入る氣配がし小池が自分等にもう一度行つて呉れと強要するので再び台所に行くと戸締りがしてあり、女中を介して帰つて呉れと言ふので、表玄関の方に行くと小池等が居り自分等が駄目だつたと申すと二、三十人の者が門から、ドツト入つて参り口々に皆で行けと申し、入つて來た連中は玄関の叩き路に坐り尚二階堂と自分の両腕を掴へて玄関に引張つて行き小池が玄関の戸を叩けそして呼べと命じ自分が断ると誰れかが玄関先の座敷の雨戸と硝子戸を開け闘爭委員は此方に來いと申し委員はそつちに行き其処から入り誰れかが玄関を開けたので、自分等も押されて入つた、自分は玄関の上り口に腰掛けて居ると中に入つた連中は、工場長を家中探して歩き電氣を点けて應接間の腰掛の下とか、押入便所の戸を開けたりして居た、その中工場長が二階で見付かつたので自分等も上れと言はれて上ると、工場長は布團の上に横になつて居り河合、福永、喜多も居り、小池、中沢、等闘爭委員十一名位が居つた結局組合の主張は今晩交渉を遣れと言つたが、今晩は駄目な事が組合にも判つて來て、午前二時頃日時人数等の話になると大滝が入つて來て、今晩どうしても遣れと申して居る中に警察官が來た旨の記載。

に依り之を認め得るから、判示事実は総て証明が十分である。

弁護人等は本件の被告人等の行爲は労働組合法第一條第二項に規定した如く労働者の地位の向上を図り、経済の興隆に寄與する目的を達成する爲め爲した正当なものであるから刑法第三十五條の規定の適用があり、無罪であると主張するので此点に付て按ずると、労働組合法第一條第二項に依つて労働組合が、同條第一項所定の目的を達する爲め爲した團体交渉その他の行爲が正当である場合は刑法第三十五條の適用を受け、違法を阻却し罰し得ないことは勿論であるが何が正当なる行爲であるかは特に明記して無いから裁判所が健全な社会通念に基いて判断するのを相当とする、惟ふに労働組合法は労働者の團結権を保障し團体交渉権を保護助成しその地位の向上を図る一面労働者をして自己の責任と義務を認識自覚させ、以て民主的にして且平和なる國家の再建を意図するものであつて、決して單に労働者の階級的利益のみに奉仕する爲め設けられたものではない、換言すれば労働者の團結権や團体交渉権は一般社会の利益との有機的関連の下に於てのみ認められるのであつて、之と遊離して観念的に主張することは到底許されないと解すべきである、從つて労働組合の團体交渉その他の行爲も専ら以上の見地に立つてその正当性を決定すべきところ罷業や爭議の裏切者防止の爲めにするピケチングが刑法の業務妨害や軽犯罪法に触れぬことは既に一般の認める所であるが、本件の如き行爲が、不法監禁や住居侵入をして同樣処罰すべきものでないかは、到底同一の見解を採り得ない人の身体行動の自由の保持や住居の不可侵は、憲法上最大の尊重を拂はねばならぬ権利であつて之が適法に侵害され得る場合は、法律に於て極めて嚴格に且狹く規定して居るのであつて、斯くてこそ人は、法治國の民として平和にして、安全の生活を営み得るのであり、労働組合の團体交渉その他の行爲に依つて斯る貴重なる法益が侵害され得ると謂ふ法の趣旨は何処にも認め得ないし、同時に斯樣な侵害も差支へないと謂ふが如きは健全なる社会通念の絶体に容認しない所である。尚右の法益が個人的法益であり、前記團体交渉権等に比し軽視すべしとの主張は当らない個人の法益が適法に保護されることは、重大なる社会性があり公共の福祉に至大の関連がある、特に判示第一の場合は労働者等が圧倒的多数の下に会社側の小数者を不法に威圧して交渉を結ばうとしたものであり、労資対等を理想とする團体交渉を会社側をして劣等の地位に置いて行はんとしたのであり、團体交渉と称し得ざるものであり、判示第二の場合は夜間に相手方の拒否を容れず、多数で他人の住居に侵入したものであり、愈正当性から遠ざかるものであること多言を要しない、畢竟此等の行爲は統制なき大衆行動であり労働組合の正当なる行爲とは認め難い。

仍て被告人等の本件行爲は何れも刑法の不法監禁罪及住居侵入罪として、処断すべく弁護人等の前記主張は採用し得ない。

法律に照すと被告人等の所爲中被告人小池充、同中沢貞夫、同富岡隆、同六川英夫、同大滝良治、同池ノ谷猛男、同柳沢精尊、同山崎正次同伊東義〓、同小池久、同田中〓の不法監禁の点は刑法第二百二十條第一項第六十條に被告人富岡隆を除く爾余の被告人等の住居侵入の点は同法第百三十條、第六十條に各該当し後者の罪に付ては何れも懲役刑を選択し之と前者の罪とは、同法第四十五條前段の併合罪であるから、同法第四十七條本文第十條に依り重い前者の刑に法定の加重を爲し被告人富岡隆は不法監禁の所定刑期範囲内に於て爾余の被告人等は右法定の加重を爲した範囲内に於て、処断すべきであるから被告人小池充、同中沢貞夫を懲役十月に処し、被告人富岡隆、同六川英夫、同大滝良治、同池ノ谷猛男、同柳沢精尊、同山崎正次、同伊東義〓、同小池久、同田中〓を各懲役八月に処し、被告人小池久、同田中〓に対しては情状刑の執行を猶予するのを相当と認め、同法第二十五條刑事訴訟法第三百五十八條第二項に則り此裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用は同法第二百三十七條、第二百三十八條に依り主文第四項記載の如く被告人等をして連帶して負担せしめる。

尚被告人富岡隆に対する本件公訴事実中、同被告人が、昭和二十三年五月六日午後九時頃判示吉岡英雄方の住居に侵入したとの点について同被告人は固く之を、否認するので此点を審究すると福永健男は、五月九日司法警察官代理の取調に対し住居侵入の当夜工場長方の應接間には全電工書記局の中原某鐘通工員の土井稔、同齋藤千代等が居り、更に其後富岡隆が玄関の土間から表に出て行くのを後ろから見たと供述し富岡隆が應接間に居つた事実に付ては何等言及しないのに、同日檢事の取調を受けた際には「右應接間には前記中原、土井、齋藤の他に富岡隆も居た」と供述の一部を変更し更に、当公廷に於ては「自分は應接間の安樂椅子を背中を自分の方に向けて腰掛けて居た者の頭の樣子や声が富岡隆に似て居たので、同人が應接間に居たと思つた」と求べ各供述の間に一貫性が無い許りではなく富岡なりと識別した基礎も必ずしも確実ではなく、誤認かも知れないから福永健男の供述を以ては被告人富岡隆に対する住居侵入の確証となしがたい仮に福永の供述通り被告人富田隆が應接間に居つたものとするも右隆が同室に入つた時刻経緯又は主観的状況等に付き之を檢討得べき資料なき本件では、直ちに住居侵入と断定し得ない、結局前記福永の供述以外に何等の証拠がなく被告人富岡隆の住居侵入は犯罪の証明なきに帰するから、刑事訴訟法第三百六十二條後段に依り此点に付無罪の言渡をする。

依て主文の如く判決する。

(裁判長判事 村岡武夫 判事 齋藤欽次 判事補 市原忠厚)

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